昭和50年03月08日 朝の御理解



 御理解 第28節
 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに八、九分かえて退屈して止めれば、掃除は出来ぬ、それで矢張り水は濁っておる様な物で、信心も途中で止めれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心にまめで繁盛する様元気な心で信心せよ。」

 お道の信心の素晴らしいと言うか、それをところに教えておられる様な気が致します。お道の信心はどこまでも、子孫繁盛、家繁盛の道と言われております。それでどうぞ家繁盛、子孫繁盛を願っとればそれで良いかと言うのではなくて、まめで繁盛する様元気な心で信心せよとおっしゃる、その元気な心で信心すると言う所に、いうなら病気災難の元である、廻りも取り払われ。
 それこそ滾滾として尽きる事無く綺麗な水が湧いて出る様に、おかげを受けられると言うのが、そう言うおかげを受けて行くのがお道の信心なんです。どうせ人間は人間の智恵やら力ではどうにも出来ない何物かがある。仕方がないのだ、もう兎に角ジタバタした所で仕方がない。言うなら運を天に任せるというか、そう言う様な心の状態を、悟りと言う様なふうに教える宗教もあります。
 人間の智恵力では、どうにも出来ないのだ、だからそういう心の一つの安らぎと言う物が生まれて来る事は有り難いのですけれども、金光様の御信心は、もう人間の智恵やら力ではどうにも出来ないのだと、それは解ったらですね、だから縋らにゃおられない、というのがお道の信心です。病気の者なら病気を治して貰わにゃならん、貧乏しておる者なら、金銭のお繰り合せを願わなければならない。様々な難儀という難儀の中から、救うて貰わなければならない。ね。
 いうならば悟りすましておるという信心じゃない。金光様の御信心は。かというて只拝みさえすれば良いとか、ね、御利益さえ頂ければ良いとか、と言う事でもない。何処までも子孫繁盛家繁盛、まめで達者でそういう元がです、頂けれる信心。それには元気な心でとこう仰られる、元気な心で信心せにゃならん。私は昨夜、昨日は総代会でしたから、ゆうべ遅くなりました。それから久富さんに足を揉んで貰うて、それから一寸一息休みましたから、だいぶん遅くなっとったでしょう。
 それから二度目のお風呂です。私は何時も四時半に此処を退りますから、五時頃にはお風呂に入るんです。それでまた夜中にそんなしてお風呂に入るんですけれども、本当にお風呂に入らせて頂いた、かすかな疲れというんですか、ね、お風呂に入って本当に気持が良い、もうそれこそ痛いもなからなければかゆいもない、ひもじい事もなからなければ、というて心が矢張りお腹の中が一杯過ぎると言う事もない、もう何とも言えんなんとも言えん、ちょうど良い状態なのです。
 お風呂に入りますとちょっと体が疲れるのですね。疲れた具合のまぁその有り難さと言うか、まあ本当に有り難いなぁと思うてお礼を申さして貰よりましたら「喜命頂礼」という事を頂きました。私は喜命朝礼という事がどういう意味か知らない。是は確か御詠歌か何かにある文句の一節だと思うんです。帰命頂礼、帰命と言う事は、命ち帰る命とこう書いてある、帰命は私が頂くのはあのう、喜びの妙と言う事。
 生きたくば信心して永生きをせよと仰せられる、生きたくば信心をして永生きをせよ。心の中がね、今私がそのお風呂から上らせて頂いて、二度目のお風呂に入って、もう一時か一時過ぎを回りましたでしょうか、お風呂を頂いてもうそれこそ何とも言えん、言わば極楽の状態とでも申しましょうか、お礼を申さして頂いとったら「喜命朝礼」と言う事を頂いた。朝礼というのはどう言う風な字が書いてあるでしょうか。
 まあ朝の礼と書いたらどうでしょうかね。礼という字を「らい」と読むですねお礼の礼、喜命朝礼。又お礼を申さして貰よりましたら、林喜久蔵と頂いた。落語家がおりましょう落語をやる人林喜久蔵という。是はすぐ分かった、ははぁ私の事だなとこう思った。林というのは木が二つ書いてある、それをこう木と木が寄り添うておる。(木は気持の気に頂いて心とゆう意味) いうならば神様の心と私の心とが寄り添うておるのだ。有り難いなあ、こんなに有り難い、こう言う有り難いそれはね。
 不安がないか心配がないか、難儀な問題がないかというとそうではない、たくさんあるんです。ね。例えば是だけ沢山の御信者の中には、もうそれこそ明日をも知れん様な状態の中に親先生お願いしますと、縋り切手る信者がいくらもおります。サア今日の手形が落てんなら、もう倒産と言われる様なお届けもあっとります。さまざまな難儀というものが、一杯私はあるんです。
 是は家族の者子供達の事ね、もう是で良いと言う事は一っつも在りません。ああもあって欲しい、こうもあらなければならないと思う事は一杯なのです。いうなら難儀もうとても担い切らない程しにあるのです。けれどもお取次を頂いて、神様にお縋りをし、お願いをしての事であるから、そこに生まれておるのは、安心なんです。皆さんがおかげを頂けるのはね、皆さんの心配を聞いて、ああそれはどうした困った事かと言うてですね、私も一諸に難儀苦労困憊しておったんでは、本なこっじゃないと思う。
 親先生だけに御苦労をかけます。成程御苦労を掛けますけれども、私はその御苦労を必ず神様にみんな持って行くのです。でなかったらそんなにのうのうとしておれませんよ、皆の悩み苦しみと言う物をです、私の双肩に掛かっておるんだと言う風に思うたら。そこにお取次を頂いて神様にお願いをする、そしてお願いをしてある事だからと。御取次を頂いて起きて来る事、良い事悪い事皆よい。
 御取次を頂かずして起きて来る事、それが良い事悪い事皆悪い。という確信に立っておるからです。そしてそういう有り難い、いうならば喜久蔵というのは喜び久しいね。合楽の言われる、合楽のまあ花で例えるならば、合楽のシンボルと言われる菊の花の事です。私の心の中に咲く花は、いうなら菊の花です、ね。所謂林喜久蔵。それは私―人ではとても喜久蔵は生まれないのです。私と神様の心が寄り添うておるからなんだ、何時も神様が私の心の中に入って下さっておる。
 私が神様の心の中に又入っておる、それが林というのです。私が有り難いなあと思うておる心の状態が林喜久蔵と言う事だなと思わして頂いた、そしてその状態と言う物は、所謂喜命朝礼である。成程こういう状態になるならば、長生きが出来る筈だと思います。長生きと言う事は、七十までも八十までも生きるという様な意味ではないです。それもあります。
 昨日総代会で北野(三井郡北野町)の秋山さんが話しておられましたが、永い軍隊生活(兵卒から少佐まで昇進された方)を送られた方ですが、「秋山さんあなたは戦時中、いうなら人を斬ったり、殺したりなさった事がありましたか」と。戦争ですからね、それはやっぱり殺したり斬ったりした事もあんなさるだろう。その事には触れられませんでしたけれども、例えばもうその銃殺するのを、機関銃を向けてです、もう銃殺する寸前にね、大概パッタリと倒れてしまうそうです。
 もうね機関銃の口が向けられた途端にです、いうならばもう言うならば心が死んでしまう訳でしょうね。だからそれと反対の事を考えてご覧なさい。例えばどうゆう例えば病気をしておってもね、どういう難儀な中にあってもです、有り難いなあという心が開けれる、そういう道がもしあるとするなら、その有り難いと言う物がね、死ぬるではなくて、生きると言う事に繋がるじゃないですか。ね。
 そんなら私には色々病気があります、腎臓ね、糖尿病、まあ厳密にいうなら色々あるでしょう。けれども私はその病気をです、病気と思うていない。神様の御都合の言うなら糖尿病という名の、神様のこりゃ御都合だと頂き切っておる。はあ私は糖尿病じゃけんこりゃーもう早死にするじゃろう、腎臓も両方悪かけんこりゃまた本当は愈々いけない、と言う様な風にはぁ一っつも思っていない、神様のご都合だと頂いておる所に、言うならば、もう是が私の命取りだろうと言った様な思い方をせずに。
 ただ有り難い有り難いで受けて行く所に、その反対のね「もう愈々」死刑の宣告のもう死ぬる。銃口が向けられた途端に、パッタリと倒れてしまう、その反対の事が言えるでしょう。成程信心をすりゃ自分の心の中に、只拝みょれば参りよればじゃない。心の中に所謂和賀心、心の中に信心の喜びの心、しかもそれがどういう場合であっても有り難いという心を使う稽古をして行くのですから、成程長生きもする事だと思います。
 但しそういう長生きと言うだけの事ではない、是は本当の意味においての長生きである。例えば教祖の神様がおかくれになって、もう百十年ですかまあだ教祖の神様は生き通しに私共の心の中に生きっとられるじゃないですか。それこそ是から五百年経っても千年経ってもです、金光教の信心のある限り、教祖生神金光大神は信者の一人一人の心に生き通されるのです。是が本当の長生きだとこう言う。
 そういう心の状態がです、受けられる状態を喜命朝礼と言う風に私は感じました。お道の信心の有り難い事素晴らしい事。只悟りを拓いて、もうこの世は確かに、偉大な力によって私共が左右されておるのであって、人間がいかにバタバタした所でです、そこに成程欲も言わんで済む、我情我欲を言わんで済む。それこそあれはどなたでしたか「要るだけは、風が持って来る木の葉かな」。庵をむすんでいるお坊さんが、そういう悟りを拓いておる。毎日いうならば、なんち言いますか、まあー悪う言うなら物足らん。
 成程要るだけは風が持ってくる木の葉かな、じゃなくてそれでは私素晴らしい事ですけれども、金光教の信心はそうじゃないです。そういう心の状態を持って、今日の御理解じゃないが、願うお言う事です。そういう心の状態を持ってです、まめで繁盛する様どうぞ元気でどうぞ繁盛致します様に。しか私の代だけじゃない、子供より孫の代にと、家繁盛子孫繁盛の、言わばおかげを願わせて貰う。
 はーりゃ、そげな事願うちゃ欲が深い、そりゃ下作(下品なの意)な信心、決して下作じゃないです。金銭やら物やら食べ物やら、汚い物の様に言うけれども、それなしには、人間は生きて行かれんのです。百円より千円持つ事の方が有り難いです。五十で亡くなるよりも、六十まで長生きのおかげを頂いたらいいのです。不健康より健康なのがいいのですね、その中にそこの中に、言うなら悟り澄ますという、まあー私はそれを悟りすましておると言う事です。
 だからある意味において、だから我情も言う事も要らん、我欲も言う事も要らん。良寛さんじゃないけれども、言わば良寛さんの結ばれた庵を五合庵と言ったそうですが、五合より以上の米は要らないというのです、又蓄えなかったそうです、無くなると又貰いに行くね、やっぱり悟りすましている。私はそう言う風に悟り済ましたんじゃいかんと思うんです。金光教の信心はどこ迄もね、本当に生きた人間がです、より繁盛したい、より長生きのおかげ頂きたい。
 より幸せになりたい、しかも幸せの条件の全てが足ろうて来る様なおかげが頂きたい。それが金光教の信心だと思うんです。そういう言うならば欲な事をと言うけれども、決して欲じゃないです。我欲がいかんのである我情がいかんのである。神様のおかげを頂いてです、限りなく尽きる事のないおかげの頂けれる道を、教祖生神金光大神は教えておられるのだ。そこでです私共がね。
 はぁ一時参ったばってん(この辺の方言で参ったけれどの意)おかげ頂ききらじゃったと言う様な信心ではいけない。元気な心で一心にまめでとこう仰るね、繁盛する様。そこん所を前半の所にですね、おかげ を受ける事は丁度井戸ざらえをする様なもんだとね。七分目八分目で止めてしまえば、何時までも水は濁っておる様なもんだ。そこん所を是はまあだ信心が足りんのだと思うてです、改まる事の上にも清まる事の上においてもね、言うなら朝礼じゃないけれど、朝礼と言う事は。
 朝の礼と言う風にね。朝参りなら朝参りと言う風に頂いて、自分の心の中に有り難いものを開いて行くならば今日一日が有り難いだろうね。そういう有り難い心が蓄積して行く所に成程、長生きのおかげを頂くだろう、そういう心にはいやが上にも人間の幸福の条件は足ろうて来るだろう。それが金光様の御信心。ね。病気災難は根の切れるまで、病気なら病気災難なら災難難儀という難儀には、その元と言う物が必ずあるのだ。
 何んにでもそうなんだ。だからその難儀の元が切れるまでと言うとられる。それが又切れるのがお道の信心だと思う。だから金光様の御信心させて頂く者の上に現われて来る、おかげと言う物はです無病息災。そんなら親先主、あなたは無病息災というてから、糖尿病患うてあるじゃないですか。所が糖尿病という名の神様の御都合であって、糖尿病じゃない、私はそう頂いているんです。だからもう病気じゃないでしょう。ね。
 所謂貧争病のない世界、合楽に御神縁を頂いて、五年十年ともし信心が続いたなら、もう絶対貧乏が無くなるです。病気はもう薬箱が要らん様になるです。第一もう争い等と言う事は無くなって来るです。皆さんのなら一人一人を見てご覧なさい、皆んなそのおかげを受けている人ばっかりです。二十年も続いとる人なら皆んな、それに真善美がこの頃伴っております。何処の家庭に行っても真が一杯。悪ではない善が一杯見苦しいものではなくてそれこそ、麗しい美が家の中に一杯である真善美が輝いておる。
 そういうおかげが、銘々の心の中に、家族の中に頂いて行けれるおかげを頂く為にです。七分目八分目で言うならば、やれやれと言う様な気を起こす様な事では、おかげは受けられないというのです。しかも今日は分かって頂きたい事はね、ただ悟りすましておったんでは詰らないと言う事です。本当に悟らなければいけん、金光教の悟りはそこからです、生々とした心で願って。例えばそういう自分の所は、極楽のおかげを頂いとるのだから、もう是でというマイホ―ム的なおかげではなくて。
 そういうおかげを、この人にも頂いて貰うたなら、こういう自分が有り難い感じを持っておる。この有り難い心をです、あの人にも分ちたい、それが合楽示現活動という働きになって来なければならぬのがお道、そこに生々とした元気な心が要るのです。自分一家だけじゃいかん、縁のある限り、自分の周辺が愈々ね。真善美に輝き、貧争病のない世界が顕現されて行かねばならない。
 金光様のご信心は其処の所が私は違うと思う。悟りすまして一生、家にはお米は五合しか置かんと言ったものでもなからなければね、成程要る程は風が自然が持って来てくれる。そういう一つの心の安らぎと言った物を頂いただけでもです、それこそ焚き物位には不自由しませんよ。是はね、まあー極端にいうなら仏教的な悟りです。諦めです、諦観です。金光教の信心は、そんなもんじゃないです。
 そういう心の状態をもって願って行こうというのです。それこそ無限力の、此処に神様が御座るならです、しかもそれが親神様であるならばです子供の私達がすがるのが当り前でしょうもん。乳呑み児がね、母親の膝に縋って登って行く様なもんです。それを下作なから私だんそげん頼みゃーせん、ご利益ご利益と宗教は低級だなどという大変間違った考えしている人も世の中にゃー沢山あります。
 ご利益も頂けるだけではない、只今も申します、自分の心の中に、いや心が助かって来る。そして形の上のものにおいても、限りなく色々人間の幸せ、幸福の条件の全てが足ろうて来るんだ。そういうおかげを皆さん頂いて頂きたいと思う。その言うならば皆さんが頂いておられるのは、その真似方(ヒナ形の意)の様な感じがする。だからもっともっと大きく頂く為に、それこそ林喜久蔵である。
 何時も絶えず、自分の心の中に神様が入りこんで御座る、何時も自分の心が神様の心の中に突入しておる、それにはです矢張り神様が水ならば、私共も水の、神様が油ならこちらも油の状態に、ならせて頂こうと努める事が信心なんだ。そこで神の心を心としてとこういうのですね、神様が水であるのに、こっちが油であったら、幾ら傍に行ったっちゃ寄り付かれん。そこで完壁と言った様な事は人間ですから、出来る事はありませんけれども、本気で神様の心を分かろうとする精進。
 神様の心を分からせて貰うて、その心に添い奉ろうという精進。私は喜命朝礼と言う事から思うた。それこそ朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さ。私が何時も申します様に、私の一日の内で一番有り難いのは、朝の三時半から四時までの、御神前に出る迄の三十分間だと。もう心は神様の前に出る為の準備でもう兎に角もう何と言うでしょうか、もう心が躍動しよる。その朝の清々しさ、その清々しさを持ってですね、自分の頂いておる所の御用に打ち込む。
 私共が例えば此処になら一日座らして貰う、その座らして頂く事が有り難うして、有り難うしてと言う事にならにゃいけん。皆さんが例えば、ね。家庭の御用をなさる商売をなさる百姓をなさる、様々のそのご用がですもう嬉しゅうして楽しゅうしてと言う事にならなければ本当の御用になりません。朝の清々しさ昼の忙しさ、今日ももうそれこそチンチロ舞いするごと、お使い回しを頂いて有り難い。そこに始て私が昨夜実感した、まあ本当にこういう有り難い心の状態と言う物がです。
 もう言葉では有り難いと言葉じゃー表現の出来んごと有り難い。そしたら神様が喜命朝礼と言うて下さった、林喜久蔵と教えて下さった。そういう心の状態と言う物はです、ああ目が覚めたまた起きらにゃならん、また嫌いなあげな仕事をせにゃならん、もうこの世は苦の世だ苦の世界と言う様な中にです、おかげの頂ける筈は絶対ありませんよ。幾ら願ったっちゃ、逆たんぼ打ったっちゃだめ。朝起きが楽しうならにゃいかん。
 その清々しさと言う物をもってですね、なら今日取り組ませて頂く御用が、損する得するはもうそれはもう問題考えちゃならん。健康でご用に使うて頂くと言う事が有り難いのだ。だから今日も言うならあなたの御用にお使い回しが頂きま
 もう有り難い有り難い。休まして頂いてもそれこそ有り難さで眠れんくらい有り難うなって来る。そういう有り難さを持って休ませて頂く時にです、あくる朝のそれこそ清々しい目覚ましのおかげも又頂ける道理であります。私は今日はね、病気災難は根の切れるまで、一心にまめで繁盛する様、元気な心で信心せよという、是はもう金光教の独壇場だと思うです。其処ん所をです、私は誤った考え方を例に引いて、金光教の信心のいうならば、その活き活きとしたまめで繁盛する様。
 願うて行くと言う願いの信心と言う物がです、生として生ける者全ての願いと言う物が、此処に結集されて。願ってゆく世界、そこにです、限りなく恵まれる世界がある。そういう言わば全てに、有り難い者が満ち溢れる世界を顕現して行く。それを合楽では、貧争病のない世界、又は真善美の世界と言う風に、聞いて頂いとる訳です。ですから例えばこのおかげを頂くまで。
 と言った様な物でなくてもう限りなくそれは続けられて行かねばならんのである。だから折角限りなく生涯なら続けられて行く、その信心がですああきつかとか苦しいとかではいけません。折角ならばですねそれこそその信心がもう有り難いもの、こよない楽しい物になって来る。言うなら好きこそ物の上手なれである。もう信心がどんどん進んで行く。その喜びその楽しみをね、味わいながらの信心の稽古でなからんならんと言う事です。
   どうぞ。